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2012年1月17日 「さかもと手帳」 Vol.4 《津田投手との出会い》

2012年01月17日

 昭和49年秋、新南陽市(現周南市)の中学校野球大会決勝戦 和田中学校(中山間地の小規模校)対富田中学校(市街地のマンモス校)の一戦を見に行きました。観客の誰もが、体格の良い選手をそろえ、動きも洗練されている富田中学の圧勝だろうと思っている中、試合が始まりましたが、和田中学のヒョロッとした投手が凄い球を投げるのです。上体のブレが大きく若干コントロールに難があるものの、今まで見たこともない快速球でバッタバッタと三振をとります。この男こそ、のち広島カープのストッパーとして大活躍をする津田恒美でした。
 惚れ惚れとしながら彼の投球に見入り、当時南陽工高野球部監督4年目だった私は何とか彼と一緒に高校野球をやりたいと強く願いました。「しかし待てよ。もし和田中がこの試合に勝てば山口県の中央大会に進出することになるが、そこには県内名門校の指導者が優秀選手発掘のために大挙押しかけている。彼らの目に留まれば当然あちこちから勧誘の手が伸び、地元の高校とはいえまだ開校して10年そこらの無名校に来てはくれない。これは勝たせてはまずい。」と途中から思うようになり、津田君の投球に魅せられながらも、負けてくれ、負けてくれと祈りながら応援したのを覚えています。それは複雑な気持ちでした。
 この試合の結果は0対0のまま終わり、じゃんけんで決着をつけることになりましたが、私の願いは通じて和田中が負けてしまい、しょんぼりしている津田君の姿を見るのは可哀そうでもあり、また安堵もしました。
 こうして津田君はすんなりと南陽工業高校野球部に入部してくれる運びとなりました。その後の津田君は南陽工高春夏甲子園連続出場、協和発酵防府の日本選手権での大活躍の原動力になるなど野球人として大きく羽ばたいていきます。
 彼との出会いは私の人生に決定的な影響を与えました。光高校へ転勤してからも、今度来た監督は津田を育てた男らしいと評判が立ち、それまで柳井や岩国方面に流出していた光市内の優秀選手が地元に残ってくれるようになり、それが平成5年・6年の甲子園出場につながりました。私には津田を育てたという意識など全くなく、あれほどの資質を備えた選手は自然に伸びていくもので、ただ私は故障をさせないようにはらはらどきどきしながら見守っていただけなのに・・・・ありがたいことです。本当にありがたいことです。
 
 教員になって演劇部の顧問にでもなろうかと思っていた私が、津田投手との出会いにより、野球専門のように言われるなんて実に面白い。人生は設計どおりにいかないからこそ面白い。でもひとつだけいえるのは日常の殻の中に閉じこもっていたのでは素敵な出会いはないということです。
 

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